建設の槌音 Vol.1 富山市の発展と新総合ビルの建設

皆様から度々ご質問があります建設に至るまでのお話を「建設の槌音」として、まとめさせていただきます。又、建設中の貴重な写真も発見されましたので、順次ご紹介させていただこうと思います。

□富山市の発展と新総合ビルの建設
富山県の経済力は、昭和10年当時全国から見てもかなり上位にあり、県民所得も全国第9位の位置にあった。それに比例して、電力事業も伸びていた。しかしながら昭和初頭の大不況期にかけて中小電気事業会社の集中合同も行われていた。
富山においては、日本海電気・高岡電燈・京都電燈福井支社の合同が行われた。その中でも日本海電気は大手電力も加わっての中央山岳地帯の電源開発においても一歩もひかず北陸地域のリーダーとして地位を保持し、勢力圏を拡大していった。
このような事業拡大にもかかわらず、富山市星井町にあった本社屋は明治の建造物で新社屋の建設を要望する声が高まってきたのも無理からぬことであった。
そこで富山市が推進していた都市計画法に基づく都市計画事業が明らかになってきた。しかしながら、明治36年における神通川本流河川変更によって生じた約30万坪の廃川地がそのまま放置されており、都市機能面の大きな障害になっていた。
そんな日本海電気と富山市両者の思惑が一致し、新県庁とともに富山市の核となり、近代的な富山市を作り出すという膨大な計画が練られた。
この動きの触発され、廃川地には次々と建造物が建設された。9年には神通中学、10年には富山県庁・武徳殿・NHK富山放送局、11年には電気ビル・昭和会館・日本興業銀行が完成していった。
そして11年に電気ビル完成を待って、55日間にわたる日満大博覧会が電気ビル正面の敷地にて行われた。

※写真は昭和9年に行われていた廃川地の区画整理事業の写真です。奥のほうに見えるのは、木町通り(現在の荒町)と桜橋近辺です。

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