建設の槌音 Vol.3 初代山田社長の構想その1

当時の富山は人口10万人に満たない地方都市で、このような産業文化センター的な総合ビルの構想は戦前の当時としては無謀ともいえる新しい事業であった。その構想を実現に向けて行動した山田の信念は一体何だったんだろうか。
その一つは、日本海電気の社長だった山田社長が電気事業の公益性に基づいて発想したものであること。二つめは、その場所について今後の富山市発展の為にはこの廃川地を利用することが最適であると考えたのである。山田社長の頭の中には当ビルの建設が諸会社、公共施設の建設を誘引し、やがて当地域が一大ビジネス街、官庁街として富山の中心となり近代的な都市となる今日の姿がすでに描かれていたのである。
三つめは、ビルの規模及び機能については単に日本海電気の本社機能のみを満足させるものではなく、より広く地域に貢献できるような機能を具備するものとしたいとの願いが心底にあったことである。
このことは昭和16年の当時の政府の電力統制強化のときの全国8ブロック構想(当初北陸は中部ブロックに組み込まれていた)の際の北陸地方の歴史的・地理的の実情を説明し北陸電力圏は独立すべしと主唱し、遂には政府案を全国9ブロックに変更させた山田本人の郷土愛と信念の強さを見ても分かる。         つづく

※掲載写真は昭和9年の検地時の写真です。先の方にはいまだ建築中の県庁舎と、松川を渡る市電が見えます。当時の市電は現在の富山中央警察署横の付近を走っていたのが分かります。

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