建設の槌音Vol.5 ビル建設までの経緯
昭和9年10月27日付け「富山日報」は、「海電」を中心とする富山電気ビルデイング株式会社創立はいよいよ近く創立総会を見る筈である」と報じているが、この新ビルの設計者は東京在住の富永襄吉であった。氏は当時の模様を次のように語った。
「私が東京大学建築家を卒業後渡米し、ニューヨークで7年間ほどビル設計にあたっていた。昭和7年ごろに帰国し、東京の聖路加病院の新築に参画した。確か昭和9年ごろだと記憶するが、富山市星井町にあった日本海電気の社屋増改築の話しがあり庭園設計の専門家であった私の知人戸部建築設計事務所の者が富山市へ出向いたところ、星井町での増改築の話が廃川地での大ビルの構想が変わってきたために、私が直接富山市へ出かけたことを覚えている。」
山田社長が富永とどうして知り合ったか明らかでないが、当時山田社長の情報通は万人の認めるとことであり、当時アメリカ帰りの新進気鋭の建築デザイナー富永襄吉の評判をいち早く耳にしたものであろう。
更に山田社長について富永襄吉は、「山田社長は全国方々を見聞しておられたので、ビル建築に関しても視野が広く新しい情報(建設デザイン、内部設計)を私に提供してくれた。又、私の斬新な設計は、当時の富山になじまなかったらしく一部の役員からは設計の変更を求められたこともあったが、山田社長は『建築というものは拘束されるものではなく時代によって変わるものである』と言って、反対意見を説得してくれた」と述べた。
やがて建設業者指名の運びとなるが、同11年25日付けの『富山日報』は、「指名入札の結果総工費60万円で戸田組の手に落札した。そして年内には敷地の基礎工事に着手、来年一杯の予定で、昭和11年3月に引渡しをおこおなうはずで明後年の日満大博覧会までに廃川地帯へ一偉観を添えるわけである」と報じている。
尚、富永襄吉は「建設業者について山田社長から意見を求められ、当時、新県庁舎の建築を請け負っていた戸田組の評判が良かったことと引き続き工事に着手できるので建築資材、機械設備などへ投入する費用が安くなることから戸田組を推薦した」と語った。地鎮祭は昭和9年12月7日に挙行された。